旧 兵庫県加東郡東条町秋津(現 兵庫県加東市秋津)の地は、現代では酒米「山田錦」の産地 特A地区の米どころとして、その名を広く知られておりますが、古代播磨国風土記(西暦713〜714年頃成立)の端鹿の里の一部をしめておりました当時は、水田の開発も遅れており、木材の産地として林業が盛んであったと考えられます。近年まで、東条松は建築用良材として全国的に重宝されていたことでもよく知られております。この地の秋津富士を中心とする周辺の山上に13基の古墳群や秋津窯址が確認されており、加古川から支流の東条川をさかのぼって来た人々が早い時期から住みついた場所であったと考えられます。当社の創始は不明ですが、口承によると、古く古墳時代後期頃までさかのぼり、創始当時の場所は現在の加東市秋津字住吉(古家字住吉)の周辺の山中と伝わっています。その後、恒田(常田)の名が示す通り、東条川の流れが定まるにつれ水田の開発がすすみ、人々の住居も水田周辺の平地に移り、清水の湧き出る清浄な地である、当社の現在地加東市秋津字清水(常田字清水)に奉遷されたのが奈良時代後期といわれています。同時に恒田明神と称するようになりました。途中鎌倉時代の建替えが伝わっており、当時はまだ神功皇后を除いた住吉三神のみを奉祀していたようです。この頃に神宮寺も建立したようです。元亀年間に広大な規模を誇ったと伝わる 森住吉神社が焼失し、当社に合祀統合しました。その時に神功皇后を配祀し、それまでの三神から四神を奉祀することとなりました。そのことから、当社の歴史は、一説では森住吉神社から始まると伝わるのも事実です。戦国時代、この地も戦乱に捲き込まれることになり、社殿の建替えもままならず、神社の物品のほとんどが流出してしまったようです。徳川時代となり、世の中が安定するにつれ、貞享4年(1687)に当社も大規模な再建がなされ、建物の配置なども現在のかたちに整いました。当時はまだまだ境内も広大で、松や杉、檜の樹木も多く、昼間でもうっそうとした杜を誇っていたようです。明治7年に郷社に列しました。明治23年(1891)に拝殿、舞殿を建替え、その後幣殿を加え現在に至っております。昭和61年には再建三百年祭を斎行しております
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)
〒673-1302
兵庫県加東市秋津1113番地
TEL 0795-47-0422
FAX 0795-47-0422